2010年12月13日月曜日

イントロはディック・ミネ

















少し遅れた。受付に着いた時会場からは昭和歌謡のイントロが聴こえてきた。♫

夢のスマロかホンキュの〜.....。席に着いたら曲は終り、「ディック・ミネの夜霧のブルースです」と言う小宮山博史氏の言葉から講演が始まった。

「明朝体活字の開発と東漸」が今回のテーマだ。

明朝体活字が中国から日本に入ってきたのは明治の初めだが、それでは中国で明朝体活字が最初に生まれたかというと実は遥かヨーロッパに源がある(中国は11世紀ころに活字印刷が始まっているが途中で途絶えた)。19世紀中国学が盛んになり対訳辞書の必要から、明朝体活字が盛んに開発された。皇帝ナポレオンは漢字の本を刊行し、あのボドニが彫刻した明朝体も素晴らしい(文字の意味は分からなくても形は真似できる。ただし濁点が一つ抜けていたが)。そんな中から2種類の明朝体活字を持って宣教師は船に乗り込み布教の地中国に向かい、上海の印刷所で漢字の聖書を刷り布教活動を進める。中国に渡った明朝体活字自体も新しい鋳造法により姿が激的に変容し、持参した活字を補完するサイズも鋳造されて行く。新し鋳造法とは簡単に言うと、それまでは金属に文字を逆字で凸刻していたが、金属材の彫刻から木材への彫刻に切り替え、メッキを応用して母型を鋳造する電胎法を開発した。これにより複雑な漢字も彫刻が容易になり完成度も上がり、小型化していった。

そんな上海で近代活字鋳造の機が熟した頃、日本ではまだ活字印刷どころか活字制作で戦っていた。そこで上海から技術者を招聘、依頼を受けたウイリアム・ギャンブルは電胎法というテクノロジーと活字を携えて海を渡り長崎の地にやって来る。これら一連の流れを多くの図版を示しながら解説をされた。その夜、私は明朝体の源流から東の果て日本まで時間と空間を旅する旅人になったような気持ちの高ぶりを覚えた。楽しかった。ありがとうございました。

12月6日連続セミナー「タイポグラフィの世界」

第1回「恋の四馬路か虹口の街か」〈明朝体活字の開発と東漸〉

相方が偶然図書館で「タイポグラフィの基礎」を見つけこのセミナーを知り申込んだ。


私のフォント「くもやじ」がタイトルに使われています。
相方が図書館で見つけてきました。


















まさ

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